ログイン食器を洗い終わった頃には、時計は十一時を回っていた。
悠斗はまだ帰ってこない。
私は濡れた手をタオルで拭きながら、なんとなくリビングを見渡した。
静かだった。
冷蔵庫の低い音だけが聞こえる。
こんなふうに一人でいる時間なんて、昔はいくらでもあったはずなのに。
最近は妙に落ち着かない。
私はソファに座り、ぼんやりスマホを開いた。
SNSには大学時代の友人が載せた写真。
夫婦で旅行に行ったらしい。
テーブルいっぱいに並んだ料理と、楽しそうな笑顔。
いいな、と思った。
同時に、自分でも驚くくらい自然にこう考えていた。
――悠斗、こういうの嫌がりそう。
写真撮るの苦手だし。
旅行も人混み多いと疲れるって言うし。
そこでふと気づく。
私はいつから、自分がしたいことじゃなくて、悠斗が嫌がらないことを基準に考えるようになったんだろう。
胸の奥が少しだけざわついた。
その時、玄関のドアが開く音がした。
私は反射的に立ち上がる。
「おかえり」
「……ん」
悠斗は気だるそうに返事をして、そのままソファへ倒れ込んだ。
お酒の匂いがする。
ネクタイは緩み、髪も少し乱れていた。
「飲みすぎた?」
「まあ普通」
スマホをいじりながら答える。
私は少し迷ったあと、キッチンへ向かった。
「何か飲むものいる?」
「あー、お願い」
冷蔵庫から麦茶を出し、コップに注ぐ。
氷も入れる。
悠斗は昔から、氷を多めに入れるのが好きだった。
「はい」
「ん、ありがと」
受け取った悠斗は一気に半分くらい飲んだ。
その喉の動きを見ながら私はなんとなく安心する。
ちゃんと帰ってきた。
ちゃんとご飯も食べたんだろう。
変な話だけど、それだけで少しホッとしてしまう。
「今日さ」
悠斗がスマホを見たまま言った。
「部長来ててダルかったわ」
「大変だったね」
「真琴、そういうのないの?」
「ん?」
「部署の飲み会とか」
「たまにあるけど……私はあんまり参加しないかな」
「へえ」
会話が切れる。
私はその沈黙を埋めたくて口を開いた。
「唐揚げ作ったんだけど、食べる?」
「え、今?」
「少しだけなら」
「んー……」
悠斗は面倒そうに眉を寄せた。
「もう腹いっぱい」
「あ、そっか」
「つーか事前に言ったじゃん。飯いらないって」
悪気のない声だった。
責めているわけじゃない。
でも私は、一瞬だけ息が詰まる。
「……うん。そうだよね」
「明日食べれば?」
それだけ言って、悠斗はまたスマホへ視線を戻した。
私は小さく笑う。
「そうする」
そのままキッチンへ戻り、ラップをかける。
冷蔵庫へ入れようとして少しだけ手が止まった。
さっきまで温かかった唐揚げは、もうすっかり冷めていた。
私はそれを見つめながら、ふと思う。
これって、いつ作ったんだっけ。
仕事終わりに急いでスーパーへ寄って。
疲れてる悠斗のためにって、下味をつけて。
帰宅してすぐ揚げて。
ちゃんと美味しくできて、少し嬉しかった。
……でも。
それを悠斗は知らない。
知らなくて当然なのかもしれない。
だって私は一度も言ってないから。
悠斗にやってあげたいで勝手に動いてるのは私だ。
なのにどうして、少し苦しいんだろう。
「真琴ー」
リビングから悠斗の声がする。
「充電器どこ?」
私は反射的に答えていた。
「テレビ台の引き出し!」
「あったわ、サンキュ」
身体が勝手に動くみたいだった。
どこに何があるか。
悠斗が何を探すか。
何を欲しがるか。
私はたぶん、悠斗本人より知っている。
それが少し嬉しくて。
でも少しだけ、虚しかった。
リビングへ戻ると、悠斗はもうソファでうとうとしていた。
「お風呂入らないの?」
「あとで……」
「風邪引くよ」
「だいじょぶ……」
半分眠っている声。
私は苦笑しながら毛布を持ってくる。
肩に掛けると悠斗が薄く目を開けた。
「真琴ってさ」
「ん?」
「ほんと世話焼きだよな」
ふ、と笑う。
昔なら、その言葉だけで嬉しかった。
必要とされてる気がして。
でも今日はなぜか、胸の奥が静かに痛んだ。
私は眠ってしまった悠斗を見つめる。
この人は私がいなくなったら困るんだろうか。
その考えが浮かんだ瞬間、自分でびっくりした。
なんでそんなこと思ったんだろう。
私は慌てて首を振り、テーブルの上の皿を片付ける。
冷蔵庫の中には冷めた唐揚げ。
明日温めればまだ食べられる。
でもたぶん。
明日になっても、悠斗は食べない気がした。
土曜日の午後一時半。 私は駅のホームに立ち、スマホで時間を確認した。 朝倉さんとの待ち合わせは午後二時。ここから二駅だから、少し早めに着くことになりそうだった。 今日は朝から落ち着かなかった。 いつも通り朝食を食べ、洗濯物を干し、部屋の掃除も済ませた。それなのに、出かける支度を始める頃には、何度も時計を確認してしまった。 服は、淡いブルーのブラウスに紺色のスカートを選んだ。 先日、一緒に喫茶店へ行った時とは違う組み合わせだ。鏡の前で何度か確認し、最後に小さなイヤリングをつけた。 別に、特別なおしゃれをしたわけではない。 でも、朝倉さんに会うのだから、少しはきれいにしていきたい。 そう思って服を選ぶ時間が、楽しかった。 電車がホームに滑り込んでくる。 私はバッグを持ち直し、車内へ乗り込んだ。◇◇◇◇ 待ち合わせの駅に着いたのは、午後一時四十五分だった。 改札を出ると、休日らしく何組かの人が待ち合わせをしていた。家族連れや学生らしい二人組、スマホを見ながら誰かを待つ人。 私は少し離れた場所に立ち、朝倉さんへメッセージを送ろうか迷った。 まだ十五分ある。 急かすようになるのも申し訳ないし、約束の時間まで待っていればいい。 そう思ってスマホをバッグに戻した時だった。「藤崎さん」 聞き慣れた声に振り向く。 朝倉さんが、改札の向こうから歩いてきた。 白いシャツに薄手のネイビーのジャケット。普段より少しきちんとした服装で、片手には小さなバッグを持っている。 いつものカメラバッグではなかった。「こんにちは。早かったんですね」「こんにちは。少し早めに出たつもりだったんですが、藤崎さんの方が先でしたね」 朝倉さんは笑いながら、腕時計を見た。「まだ十五分ありますし、慌てなくてもよかったのに」「私も少し早く着いてしまったんです。電車の時間がち
洗濯物を畳み終える頃には、部屋の時計は午後十時に近づいていた。 私はクローゼットへ衣類をしまい、明日の仕事の準備を済ませた。 いつもと変わらない月曜日の夜だった。 けれど、今度の土曜日には約束がある。 朝倉さんと、午後二時に待ち合わせる。 そう考えると、自然に頬が緩んだ。 何を着ていこう。 カフェでは何を頼もう。 写真で見た季節のケーキもおいしそうだったけれど、焼き菓子も気になる。 そんなことを考えているうちに、ふと手が止まった。 こんなふうに誰かと会う日を楽しみにするのは、いつ以来だろう。 悠斗と付き合い始めた頃は、私も休日の予定を楽しみにしていた。 どこへ行こうかと話し、服を選び、待ち合わせの時間を何度も確認した。 あの頃は、会えるだけで嬉しかった。 特別な場所へ行かなくてもよかった。仕事帰りに待ち合わせて、駅前の店で夕飯を食べるだけでも楽しかったし、帰り道に少し遠回りをするだけで、もう少し一緒にいられることが嬉しかった。 それがいつの間にか、休日は一緒に生活を回す日になっていた。 買い物へ行き、足りないものを補充し、掃除をして、食事を作る。時々出かけることもあったけれど、私の頭の中には帰宅後の夕飯や翌日の準備がいつも残っていた。 あの時間が全部嫌だったわけではない。 楽しかった日も、嬉しかったことも確かにある。 ただ、いつからだろう。 誰かと過ごす予定を楽しみにするより、その予定をうまく終わらせることを考えるようになったのは。 私は畳み終えたタオルが収まった棚を見つめた。 もう、あの頃のことを一つずつ責めたいわけではない。 悠斗との時間を、全部間違いだったことにしたいわけでもなかった。 私が好きだった気持ちも、二人で笑った時間も本当だったのだと思う。 でも、好きだったからこそ、私は少しずつ無理をするようになっていた。 相手が困らないように。
返事が届いたのは、メッセージを送ってから二十分ほど経った頃だった。 私はちょうど洗濯物を畳んでいて、テーブルの上でスマホが震える音に顔を上げた。 画面には、朝倉さんの名前が表示されている。 自分から送ったのだから返事が来る可能性は分かっていたけれど、実際に名前を目にすると、思っていた以上に緊張した。 私は手に持っていたタオルを畳み終え、洗濯物の山の上に置いてからスマホを取った。 もし、都合が悪かったら。 誘われたこと自体が負担だったら。 そんな考えが頭をよぎる。 断られる可能性があることは、送る前から分かっていた。だからといって、怖くないわけではない。 私は画面を開いた。『こんばんは。こちらこそ、先日はありがとうございました。お誘いいただけて嬉しいです。今度の土曜日なら午後から時間があります。ぜひご一緒させてください』 読み終えた瞬間、肩の力が抜けた。 そして、自然に笑みがこぼれた。 朝倉さんが、私の誘いを受けてくれた。 それだけではなく、誘われて嬉しいと言ってくれている。 私はその一文を、もう一度読み返した。『お誘いいただけて嬉しいです』 丁寧で、朝倉さんらしい言葉だった。 けれど今は、その丁寧さの奥に、彼自身の気持ちがあるように思えた。 先日、喫茶店で話した時もそうだった。 朝倉さんは、私と普通に話してみたいと思っていたと言ってくれた。展示や写真の話だけではなく、何でもない時間を一緒に過ごしたかったのだと。 そして今日、私が誘ったことも喜んでくれている。 私だけが、また会いたいと思っていたわけではない。 そう分かったことが、胸の奥を温かくした。◇◇◇◇ 私はカフェの案内ページをもう一度開き、場所と営業時間を確認した。 土曜日の午後なら、ちょうどいい。 写真で見た雰囲気は素敵だったけれど、実際に行ってみたら想像と違うかもしれない。週
月曜日の昼休み、私はスマホの画面を眺めながら、少しだけ悩んでいた。 表示しているのは、会社から電車で二駅ほど離れた場所にある小さなカフェの紹介ページだった。 古い建物を改装した店らしく、木製の家具と大きな窓が印象的だった。写真には焼き菓子や季節のケーキが並んでいて、休日には軽いランチも出しているらしい。 気になったのは、窓際にある二人掛けの席だった。 朝倉さんと行った喫茶店とは雰囲気が違うけれど、ここなら落ち着いて話せそうだと思った。 先週末、朝倉さんと別れる時に交わした約束。 今度は私から誘ってもいいですか。 朝倉さんは、ぜひ、と答えてくれた。 あの時は自然に言えたのに、いざ本当に誘おうとすると、少し緊張する。 まだ数日しか経っていない。 早すぎるだろうか。 でも、せっかくなら今度の週末に行ってみたい。 私は画面を閉じたり開いたりしながら、何度目か分からないため息をついた。「藤崎さん、何か難しい案件ですか?」 顔を上げると、森下さんが立っていた。「あ、ううん。仕事じゃないの」「そうなんですね。すごく真剣なお顔だったので」 森下さんは隣の椅子に座り、持ってきたお茶をテーブルに置いた。 私は少し迷ってから、スマホの画面を見せた。「このお店、どう思う?」「カフェですか? 素敵ですね。誰かと行くんですか?」「……うん。まだ誘ってないんだけど」 そこまで答えると、森下さんが私の顔を見た。 そして、少しだけ目を見開く。「もしかして、朝倉さんですか?」「どうして分かったの?」「藤崎さん、今ちょっと照れてます」「そんなに分かりやすい?」「はい。でも、いいと思います」 森下さんは笑いながら、スマホの写真へ目を戻した。「ここ、雰囲気もよさそうですし、駅から近いみたいですね。何よ
会計を済ませて喫茶店を出ると、午後の日差しは少し傾き始めていた。 店内ではあまり意識しなかったけれど、外へ出ると空気が少し涼しい。私はバッグの持ち手を直し、朝倉さんと並んで書店の方へ歩き出した。「今日はありがとうございました」 私が言うと、朝倉さんは首を横に振った。「こちらこそ。突然誘ってしまいましたけど、来ていただけてよかったです」「最初は少し驚きました」「そうですよね。書店で偶然お会いしただけでしたから」「でも、嬉しかったです。前から行っていた喫茶店なのに、今日はまた違う楽しさがありました」 そう答えると、朝倉さんは少し照れたように笑った。「そう言っていただけると、誘った甲斐があります」 私たちは信号の手前で足を止めた。 向かいの歩道には買い物帰りらしい人がいて、近くの花屋では店員さんが店先のバケツを片づけ始めている。 いつもと変わらない休日の午後。 その景色の中で、私はさっきまでの会話を思い返していた。 朝倉さんが、私と普通に話してみたかったと言ってくれたこと。 自分から誘ったのだから、気にしなくていいと言ってくれたこと。 どちらも、私には嬉しかった。◇「また、あのお店に行きたいです」 信号が青に変わって歩き出した時、私は自然にそう言っていた。「そうですね。また機会があれば」 朝倉さんは穏やかに頷いた。 私はその返事を聞きながら、少しだけ考えた。 また機会があれば。 便利な言葉だと思う。 次の予定を決めなくてもいいし、相手に負担をかけることもない。社交辞令として使うこともできるし、本当に次を楽しみにしている時にも使える。 以前の私なら、そこで会話を終わらせていただろう。 相手が次の予定を提案してくれるまで待つ。自分から誘って断られたらどうしようと考え、曖昧な言葉の中に気持ちをしまっていたと思う。 でも、今日は少し
喫茶店の壁に掛けられた時計は、午後三時を少し回っていた。 窓際の席には柔らかな日差しが残っていて、向かいに座る朝倉さんの横顔を明るく照らしている。プリンの皿は空になり、コーヒーも残り少なくなっていた。 そろそろ帰る時間だろうか。 そう考えてから、私は自分が少し名残惜しく感じていることに気づいた。 今日は小冊子を買うために書店へ来た。朝倉さんに会えるかもしれないとは思っていたけれど、こうして一緒に喫茶店に入ることになるとは予想していなかった。 だから、この時間が終わるのを惜しいと思うことにも、少し戸惑っている。「藤崎さん?」 朝倉さんに声をかけられ、私は顔を上げた。「何か考え事ですか?」「あ、いえ。そろそろ帰る時間かなと思って」 そう答えると、朝倉さんは壁の時計を見た。「そうですね。もう結構話していましたね」「はい。思っていたより時間が経っていて、少し驚きました」「僕もです。今日は写真の話をほとんどしていないのに」 朝倉さんが笑うので、私もつられて笑った。「プリンの話はしましたけど」「それは重要な話でしたね」「はい。かなり」 以前は、相手と過ごす時間を楽しくしようとして、会話を途切れさせないことばかり考えていた。けれど今日は、話題を探すために無理をした覚えがない。 朝倉さんも自分の話をしてくれたし、私も休日の過ごし方を話した。特別な出来事があったわけではないのに、もう少し一緒にいたいと思っている。「藤崎さんは、休みの日に一人で出かけることが増えたんですよね」 朝倉さんが、コーヒーカップをソーサーへ戻しながら言った。「はい。前はあまり出かけなかったんですけど、最近は気になる場所があったら行ってみようと思うようになりました」「工房もそうでしたね」「最初はかなり緊張しました。駅から歩いている間、本当に道が合っているのか何度も確認してしまって」「僕も初めて行く場所では同じこと
その日から私は少しだけ悠斗のスマホが気になるようになった。 別に見るつもりはない。 そんなことしたくないし、したら終わりだと思う。 でも。 通知が鳴るたび、無意識に視線が向いてしまう。 悠斗が笑うたび、胸の奥がざわつく。 自分でも嫌だった。 こんなの重い彼女みたいじゃない。
私はスマホの画面を見つめたまま固まっていた。『今日はありがとうございました!またみんなで飲みたいです!』 送信者は、『秋山 美咲』。 知らない名前だった。 でも、悠斗のスマホに届いた通知ではない。 私のスマホだ。 私はゆっくり画面を開く。 どうやらメッセージアプリの「知り合いかも」の
昼休み、スマホが震えた。 私は資料から顔を上げ、デスクの隅に置いていたスマホを見る。 悠斗からだった。『今日後輩来るから適当に飲み物買っといて』 私は画面を見つめたまま、少しだけ指を止める。 ――後輩。 今朝言っていた人だろう。『わかった。何人?』
翌朝、目が覚めるとソファの上に毛布が落ちていた。 悠斗はベッドに戻ったらしい。 私はぼんやり天井を見上げたまま、小さく息を吐く。 身体が重い。 昨日はちゃんと寝たはずなのに、疲れが抜けていなかった。 時計を見る。 午前六時半。 あと三十分で悠斗を起こさないといけない。







